いんふぉめーしょん!

●Information

□イラストのご依頼承ります。お手数をお掛けしますが、下記のメールアドレス
watashihahomuhomuhadesu@live.jp
または
Twitter account(@gomoku_2)にご連絡ください。

2017年1月4日現在、お絵描きの方は休止中です…。


□直近の創作活動

このRPGは現代の女の子が悪魔退治するだけな件(ゲーム、RPGアツマール)
http://game.nicovideo.jp/atsumaru/games/gm980

作中のイラストを担当しました。ゲームはRPGツクールMVで作製されたものです。
めぐりたそ^
『このRPGは現代の女の子が悪魔退治するだけな件』は2016年12月22日に
RPGアツマールという特設サイトで公開されました。ブラウザ上でプレイできます。



グルーミーな放課後(漫画、コピー本)

漫画本です。全11Pです(後書き含む)
glm1.jpg
glm7.jpg
『グルーミーな放課後』は2016年12月18日にみやこめっせにて
行われたComiCon京都Winterで頒布するために作製されました。



ここではないどこかにて(仮題)(小説、ニートノベル)
http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=19579

2016年10月から書き始めている小説…もといライトそうなノベルです。
まだ完結はしていないです。

人身御供という、いわゆる「生贄」のならわしと、何かをかけあわせたら
青春群像劇っぽくならないかなーと思って書き始めた小説です。
まだまだ色々と実験段階!



斎藤武雄の忘備録(小説、ニートノベル)
http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=18835

2016年の2月から5月にかけてニートノベルで書き綴っていた小説です。
ひきこもりの童貞ニートが主人公!
駄目駄目な主人公の自宅中心のジュブナイル!
…でもちょっぴり泣けます。(泣けたらいいな)
(2016年5月22日完結!)



宇宙性精神疾患(小説、カクヨム)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881772422
2015年12月の、東京にて行われた文学フリマの頒布本で発表した「宇宙性精神疾患」を
webで公開してみました。



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「かみながわ(仮)」。同人サークルのHPです。
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ここではないどこかを求めなくても、きっと誰しも生きていける

どうもお久しぶりです。五目です。ちゃんと生きてます。

今日は「ここではないどこかにて(仮題)」という小説の続きを書いていました。それで、書いている感想というと
あれなんですけど、「事態はどうあれ、人間的には結構大丈夫になってきてるんじゃないの」という
感想を書いている最中に抱いたり抱かなかったり。
●●●をどうするのだとか、まあ僕もまだまだやらないといけないこと、考えないといけないことも
たくさんあるのですが、それはさておくとしても、人間的にはちょっとずつ大丈夫になってきてるのかなぁ、なんて。

もっとなんでも積極的にいけば上手くいきやすいんだ、とか、うじうじ悩みながらでも行動に起こしてみれば
結構どうにでもなることも多いとか、そういうことをもっともっと人生の早い段階で学んでおくべきだったなとか
最近は特にそう思います。
今回は以上です。ではでは。

生き辛さの原因は主体性の欠如から

どうも久しぶりです。五目です。最近は色々やらなきゃいけないことをすっぽかして
文章ばっかり書いてます。

……というのはおいておいて。
今回は僕が高校生の頃から抱いてきた「生き辛さ」に関することを少し書いてみようと思います。

今回の内容を要約すると…
生き辛さの原因は「主体性の欠如にあった?!」
ということになります。

……まあ、要約すると書いちゃいましたけど、要約するほどの分量の文章を今回は書かないとは思うんですけど…
まあ…一応…。

っていうか、要約するまでもなく、ああ、まさにその通りだった!っていう感じなんですけど。

主体性の欠如、という言葉もちょっと抽象的でわかりにくいかもしれません。じゃあ、具体的にいうと
どうなんだ、っていうことなんですけど…。
具体的に言うと、主体性の欠如というのは自分に関する事・物を自分でコントロール(制御)することが
できていない状況
のことを言います。

自分に関する事・物を自分でコントロールすることができていない状況が続けば、人間どうなってしまうのか…?
簡単です。無気力になります。何もかもが嫌になります。

僕もここ数年は好きな事に対しても全くやる気がわかないという無気力に苛まされていましたが、
恐らくその無気力の原因は、自分に関する事・物を自分でコントロールすることができていない状況が
続いていたから…、つまり、主体性の欠如ゆえに無気力に苛まされていたのだと思います。

でも、今は…というか最近は、無気力も少しずつ治ってきました。(あえて『直る」ではなく『治る』という風に書きました)

最近の僕は、ようやく好きな事であればやる気がわくようになってきました。そして現に、好きな事であれば
嬉々とやれるようになっている自分がいます。これはまさしく進歩だ!祝うべきだ!
と思ったので、今回の記事を書いた次第で云々。

…まあこれも当たり前といえば当たり前の話なんですけど、人間自分の力じゃどうにもならないような
理不尽で制御不能な事ばかりに巻き込まれてちゃあ、そりゃあ自分が何をやったって意味はないんだという
気分になっちゃいますし、そうなっちゃうと無気力にもなっちゃいますよね…という話です。
当たり前と言えば当たり前の話。

好きな事、どんどんやりましょう。そして欠如した主体性も少しずつ取り戻していきましょうじゃないですか!
(誰かに向かって言っている。専らその相手は自分自身…?!)

っていうか、冒頭で今回は要約するほどの分量を書くつもりはないと書いてしまいましたが、
もうこの時点でおおよそ1000字ほど書いちゃっているわけです。
恐ろしい…!
文章をたくさん書くことによってもたらされる効用(弊害とも言うべき…?!)は、どうでもいいことでも
無闇矢鱈に引き延ばせちゃって、すぐに1000字、1500字ほど書いちゃうっていうことなのかもしれません…!
あー恐ろしあ恐ろししあ。

…という具合で、最近の僕も生きてます。まあまあ幸せ…なんじゃないかな、とかも
思ったりも思わなかったりもして。

さてさて。現在僕は『ここではないどこかにて(仮題)』という小説もといノベルを熱心に書いています。
http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=19579

でも…まあ、コメントがこないというのはいかんせんいつも通りなのですが、
ただやってもやっても反応がないというのも少し寂しいところかなとも思いまして。まあ、よければ
読んでやって、その上でもしよければコメント…なんかも与えてくれると、まるで餌を得た小動物のごとく
僕が喜ぶのではないかな…とも思います。なので、もしよければコメント等してやってください。

ではでは。今回はここまで。
『ここではないどこかにて(仮題)』、続きを今から書いていきます。ではでは。

test

















何千回目の反省会

「あの時、あんなことを話さなければよかった!」
「もうちょっと相槌を打つべきだったんだ!」
「相手の話を遮りすぎ!もうちょっと人の話を聞いた方がよかった!」
「あれじゃ会話のドッヂボールじゃないか!キャッチボールをしよう!」
「もう少し話しておけばよかった!」

そんなことを思い巡らせながら、今日も夜な夜な
何千回目の反省会が自宅の寝床で開催されています。

…最近、ちょっとだけ頻度は減ってきたかな?
と思うけれど、まあまだまだ多い。
駄目なところ、至らぬ点、何だか失敗したなぁというところもたくさん。

だけど、もはや失敗しかしてないんだろうと思う僕だけど、
好いてくれる人もいる。なんて良い人達なんだろう、といつも思う。

そして僕も、そんな失敗ばかりしている人を見ると
「お、この人も僕と同じように今夜も反省会を開いているのかな」
と思う。

人間は失敗する生き物だ(と僕は思っている)。
だから多少の失敗は大目にみる。
もちろん、大目に見切れないような失敗にはちゃんと怒る。
…だけど、僕のその怒りが、その人の反省会の材料にはならないように、と
少し願いながら。


ここからやや業務連絡気味
4/30に開催されるコミコンに、もしかしたら出るかもしれません。
スケジュール的に相当厳しい模様になりそうなので、新刊は
ちょっときついかもしれないですね…。
ポストカードあるいは既刊本のまとめ本か…。
どうなるんでしょう。
でも、出たい!という思いは結構あったりします…。
ではでは。

生きてることが辛いなら

自分の某twitterアカウントを眺めていたら、おおよそ5年前のツイートに
森山直太朗の「生きてることが辛いなら」という曲のyoutubeのURLが貼られていた。

生きていることが辛いなら、生きてることが辛いなら何をすればいいんだろうかーとか、
ここ数年の内に自分は一体何をしていたんだろうかとか、そんなことを湯船に
浸かりながらぼんやり考えていた。

ここ数年は、自分にとってもなかなか辛いことも多かったんじゃないかと思う。
色々と大変だったことも辛いことも多かったし、数年経っても解決できていないことも
山ほどある。
その内の一つがコミュニケーションの問題。この問題は、別に自分がコミュ障気味だとか
そんなレベルの問題じゃない。
コミュニケーションの問題、それは、人と意思疎通(つまりコミュニケート)することは、
案外難しいという問題なのだ。
以下はコミュニケーションの問題に関して書き連ねたものだ。


自分と育った文化圏が近い人間、培ってきた常識が自分と同じものである人間、
そして信条とするものが同じ人間、これらの人間と意思疎通することは、
正直な話、非常に簡単である。
では、そうでない人間と意思疎通する場合はどうか。
自分と育った文化圏が似通っていない人間、培ってきた常識が自分と
あまりに違う人間、信条とするものが自分と全く違う人間、これらの人間と
意思疎通することは容易ではないのだ。というか、ひっじょーに難しい。

なぜ自分と常識が異なる者との意思疎通が非常に困難なのだろうか。
それは自分と常識が異なる者とでは、「普通」と思えることが全く違うからだ。

自分と育った文化圏が似通っていない人間。培ってきた常識が自分と
あまりに違う人間。信条とするものが自分と全く違う人間。
例えば。僕にとってのそういう人間というなら、ずばり言うなら
飲み終わったコップの中に箸を入れるような人間がそれに当たるだろうと思う。
食べ終わった丼をテーブルの上に伏せた状態にすること(いわゆる「伏せ丼」)も
多分僕にとってそれに当たるだろうと思う。

飲み終わったコップの中に箸を入れる人間、伏せ丼をする人間。
そういう人間を「変わった人間」「常識がない人間」「マナーがなってない人間」と
非難するだけなら、とても簡単だろう。
だけど問題はそこじゃない。その理由は相手の立場に立ってみることで初めて理解できるだろうと思う。

例えば。飲み終わったコップの中に箸を入れるような人間は、
食器を片付ける際に簡便のためにコップの中に箸を入れる習慣を持つ
家庭の中で育ってきたとしよう。家庭の中で「普通」とみなされていることを子供は
「普通」だとみなすので、飲み終わったコップの中に箸を入れる行為は食器を
片付ける際にコップの中に箸を入れる行為を「普通」だと思って育っている。
だけどその行為は世間一般の常識から考えると「普通でない」行為であるとする。

そうすると、コップの中に箸を入れる子供は、片付けの際にコップの中に箸を
入れる行為を、世間から「普通じゃない」と非難されるはめに陥ってしまう。するとここで
その子供は困惑することになるのだ。なぜ困惑するのか。
それはなぜならその子供にとっては片付けの際にコップの中に箸を入れるという行為が
「普通」であるからだ。自分が今まで「普通」と教えられてきた行為を、「普通じゃないよ、それ」
と非難されても、全く理解できないのも無理はないのである。

自分にとって「普通」である行為が他者から「それは普通じゃないよ」と意見されて、
「えっ、そんなの普通でしょ。何言ってんの」と思ってしまった経験を持つ方は
案外多いんじゃないかと思う。
(という経験をされた方は案外多いんじゃないかと
思う。僕もその内の一人である)

上述したコミュニケーションの問題の本質はそこにある。

つまり、自分にとっては「普通」な行為が、ある他者にとっては
「普通でない」行為だと受け取られる場合がある、ということだ。

この現象が、常識の違う他者とのコミュニケーション(意思疎通)を一層
困難にするのだ。

しかし、それでも常識の違う他者と意思疎通をしようと思うのなら、
どうすればいいだろうか…。

そう、こういう経緯を踏まえた上で読み返して欲しいのが、前述した
コミュニケーションの問題、それは、人と意思疎通(つまりコミュニケート)することは、
案外難しいという問題である。

自分と常識の違う他者との意思疎通に関する問題を、どのように解決していけば
良いだろうか?その方法について、僕はここ数年の内にあれやこれやと本当に
悩んだ。そして、その方法について僕は一筋の光を見出した。

自分と常識の違う他者と意思疎通をする方法の一つは、
他人と自分は常識が違うということを自覚するということだ。
常識の違う人間として、つまりは異文化コミュニケーションの一つとして、
尊敬の念を持ちながら常識の違う他者と接することができれば、
多少の困難はあっても、そんなに難しいことでなければ磯疎通は
可能である。(さながら外国人と話している気分!)

自分と常識の違う他者と意思疎通する方法の二つ目は、
言葉といった文化的文脈に依存しがちなコミュニケーションツールを使わずに、
身振り、手振り、簡素でわかりやすい感情表現、感嘆文といったボディランゲージ寄りの
コミュニケーションツールを使うことで、意思疎通を簡便にするという方法である。

これらの二つの方法を見出すことによって、僕は
自分とは常識の違い人間と意思疎通することが格段に容易になったように
思います。まあ、ここまで長々と書いてきましたが、まとめると要はノリがあれば
大体の人と意思疎通ができるよ!という話でした。
こうして、僕の抱えていた問題の一つである「コミュニケーションの問題」は、
長い年月をかけてだいぶ解決に近付いてきました。(かなりマシになった!)

でも、この方法を見出す過程は、決して生半可なものではありませんでした。
毎日毎日コミュニケーションの問題に苛まれて、本当に辛かったです。
(今でも若干辛い!)


生きていることが辛いなら、どうすれば良いのでしょうか。
お風呂の中での脳内会議の結果によれば、どうやら
ライブハウスに行けば全て解決するらしいです。

ライブハウスの中で思いっきり騒いで、ぴょんぴょん跳ねて、酒を飲む。
そうするとアドレナリンがぼろぼろ分泌されるので、生きていることの辛さが
だいぶ和らぐともいます。
だから、毎日死にたい死にたい、もっと本当の自分になりたい、自分らしくありたい!
と思っているような人は、是非ライブハウスに行くべきだと思います。というか、行こう!

また、生きていることが辛いのであれば、いっそその生き辛さの全てを自覚して、
自分らしく生きればいいのだと思います。
とはいえ、自分らしく生きるということはこれまた非常に難しいことです。
世間体というものも気になりますし、何よりが自分で自分の行動を制限かけてしまっている
場合が非常に多いのです。
だけど、その生き辛い状況の中でも、しっかりと自分という人間を見つめなおして
自分らしさという要素を自分の人生設計に組み込むことができたのでれば、
きっと、「生きてることが辛い」なんて状況にはらないと思います。(あくまで予想)


自分らしく生きる。自分が心の奥底からやりたいと思っていることを自分らしくやる。
そうしていくと、いずれ自分を受け入れてくれる然るべき場所に巡り合えて、
そして「生き辛さ」も解消していくのではないかと、そう思った2月1日深夜であった。